城 

2017/10/01

静岡で感動。

天気予報では、「晴れ」となっているのに、今日はどうもどんよりとした日でした。

出かける予定がありましたので、そんな天気で、どうもテンションが上がらない朝でした。

しかし出かけてみたら、こらが実に充実した一日となったんですよ。

では、ご報告いたしましょう。

全国の城郭マニアの皆様、お待たせしました。

今日はお城ネタです。

今日行ったところは静岡市、静岡市と言えばそう「駿府城」です。

駿府城は、昨年より何と天守台の発掘作業が行われているんですよ。

これは見ておかないと!

という事で、歴史マニアの兄と見てきましたよ。

では、現在の天守台の発掘状況です。

Dsc_0901_2
どうですか!凄いでしょう!

「駿府城は日本最大級の天守台」とは聞いていたんですが、これほどまでに巨大だとは思いませんでした。

感動です。

実に一辺が68メートルもあるんですよ。

現在は崩れてしまって6メートル弱の高さだそうですが、実際は堀から19メートルあったと言われています。

Dsc_0937_2バックのビルと対比すると、その巨大さが想像つくんじゃないでしょうか。

Dsc_0940_2崩れた石垣の石も発掘され、間近で見る事ができます。

Dsc_0942_2
400年前の職人が石のみでコツコツ削り出した跡ですよ。

なんか凄く感動です。

これに触れると、一気にその時代にタイムスリップした気分になります。

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でも疑問が沸きます。

こんな巨大な天守台が何で埋まってしまったんでしょうか?

400年という時が自然に埋めてしまったのでしょうか?

そうではありません。

埋めてしまったのです。

歴史マニアの方はよくご存知かと思いますが、明治時代に政府から「廃城令」という忌々しい法令が施行されました。

この時、日本全国で貴重な城郭の多くが破壊されました。

駿府城も同じで、ここに陸軍の歩兵部隊を置くため埋め立ててしまったんですね。

近年ではここに公共施設も建てられていたようです。

それも取り壊され、しばらくはここも空き地となっていたんですね。

そして現在は、この天守台の発掘調査を行うと共に、天守閣の再建も検討されているようです。

しかし、鉄筋コンクリートで建造した場合、100億円のという桁違いの費用が必要と言われています。

木造で再建した場合は240億円から250億円とも言われています。

なんか現実感が無くなって、がっくりきました。

私が生きている間に再建はないでしょう。

でも、想像していると、どんどん夢が膨らんでいきます。

夢は考えている時が一番いいのかもしれないですね。

もし本気で再建するならば、もちろん私は寄付金を出します。

例えそれを見る事ができないとしても、自分が築城に携わった明かしを自分の中に残したいんです。

そんな夢があってもいいんじゃないかと思うんです。

駿府城天守台の発掘はまだまだ続きます。

城郭に興味がない方でも、ご覧になったらきっと感動すると思いますよ。

是非、見に行ってください。

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MD兄弟はその足でこちらへ。

Dsc_0951_2静岡県立美術館です。

現在コレをやっているんですよ。

Dsc_0954_2
大河ドラマも直政が登場し、ラストに向けて盛り上がってきました。

ちょうどタイムリーで美術館が開催してくれたので2倍楽しめました。

もちろん撮影NGなので皆様に画像でお伝えできないのが残念ですが、その内容は実に充実した物になっていました。

全国にある貴重な書状や古文書、武具、絵画など二度とみることができないような物も展示されています。

これを見れた事は私にとって宝に値するものでした。

感動です。

静岡県立美術館さん、ありがとうございました。

開催はあとわずか、10/12までです。

まだ間に合います。

歴史に興味がある方、観る価値 大ありです!

今日は感動ばかりでいい一日になりました。

静岡県バンザイですわ。

では。


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2016/05/07

北遠の城 犬居城 登城。

話が前後しますが・・・。

連休5/4、遠州の城 犬居城に登城してまいりました。

犬居城は標高256メートルの行者山に築かれた山城。

先日の大和高取城、高天神城に続きこの連休は山城三昧です。

体力がないので、非常にキツいのですが、おかげさまで、とてもウエストがスリムになりました。

たぶん、佐野ひなこ ちゃんに匹敵するウエストサイズだと自負しております。(笑)

前夜、大雨だったので山道がどんな感じなのか一抹の不安を抱えながら犬居城址を探します。

会社の若い衆が、「ボクの高校の裏山が犬居城でしたよ。」と言っていたのが大きな手掛かりです。

旧春野高校を目指していけば着くはずです。

秋葉神社下社のすぐ近くです。

若干、登城口を探しましたが、割とすぐに発見できました。

Photo
すでに先客の方が登城されているようです。

こんな秘境に近い山城に来るなんて、好きな人がいるんもんですね。

おまえもじゃ!

いつものように軽登山になりますので、トレッキングシューズに履き替え、スティックも持参し準備万端。

もちろんカメラ、スポーツドリンク、タオル、方位磁針など必需品は常にリュックに入っています。

Varwwwclientsclient1web2tmpphphbmknとても良心的ですね。登城口に杖が用意してくれてあります。持ってない方はお借りしてください。

山道は、杖があるか無いかで安全度がだいぶ違ってきます。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpo2giz若干のぬかるみはありましたが、難なく登れそうです。こんな山道が続きます。

説明では頂上まで25分程かかるそうです。

登り始めて数分、左側に巨大は竪堀が確認できました。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpaybdzどうですか?全然判らないでしょう!(笑)

残念な事に写真になると、掘の深さとか迫力が伝わらなくなってしまうんですよ。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpe44np更に進みますと、おそらくこれも空堀の跡でしょうか、遺構が確認できました。この掘ぬ向こうは断崖となっています。

400年という年月が、だいぶ掘を埋めてしまっていますね。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpinxnhこれまた判りづらいんですが、これも空堀跡だと思います。何の説明看板もないので、地形をよく確認しながら登らないと遺構を見逃してしまいます。

Varwwwclientsclient1web2tmpphprv3vhこれも空堀ですね。

そうこうしているうちに頂上です。

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頂上は、「物見曲輪」になっています。

「物見」というのは早い話が「見張る」という意味ですね。

櫓を築き、城兵が常に城下を監視しているんですね。

ここでやっと縄張り図を見ることができました。

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Varwwwclientsclient1web2tmpphpurz_3展望台がありました。登って見てみましょうか。

Dsc_1257_3おおっ!これはいい眺めです。手前の建物が旧春野高校校舎ですね。

奥には気田川が流れています。おそらく天然の掘として活用していたんでしょうね。

「本曲輪」を確認しようと先に進もうとしたら、もう道がジャングルと化していて行ける状態ではありませんでした。

残念。

後で調べてみたら、秋葉神社側からも登れるみたいでした。

そっちから登ればよかったのかもしれません。

でも、もういいかな 疲れるし。

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犬居城

種別 : 山城

築城年 : 不明

城主 : 天野氏

築城年代は判っていないが、南北朝時代からある城らしくその歴史はかなり古いと思われる。

北遠の領主、天野氏が所有していた。

戦国時代の天野氏は、今川義元の仕えていた。

「桶狭間の戦い」で今川氏が討ち取られると、そのまま徳川家康の従ったようである。

しかし1572年、甲斐の武田信玄が遠州侵攻を開始すると天野氏は武田側に寝返った。

これに家康は怒りを露わにし、1574年犬居城攻めを行なう。

この戦いでは家康を退けた天野氏であったが、その2年後再び家康は犬居城攻めを行なってきた。

これに耐えることができず天野氏は武田氏の甲斐へ敗走。

遠江の天野氏はそのまま滅亡に至った。

武田に寝返った時期に改修を行なったようで、三日月掘や馬出虎口など築城の仕方が武田流であるところがみどころである。

ジャングルは何が出てくるか危ないので、これでおしまいと自身を納得させながら、

犬居城 攻略!

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2016/05/04

第三次 高天神城攻め。

連休は、割と忙しく過ごしていますよ。

昨日も、過去三度目となる高天神城に登城しました。

前回はちょうど一年前でしたね。

何でそんなに何回も私は高天神に行くのでしょう?

答えはのちほど解ります!

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天候が危うい感じでしたので午前中から登城を開始しました。

軽登山になるので、装備もそれなりに準備しました。

P4050110_2トレッキングシューズとトレッキング用のスティックがあればOKでしょう。

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今回は、南側の追手門側から登城します。

追手門側は、北側の搦手門側のように階段など登るための整備が行き届いていません。

それがかえって高天神城の良さを引き出します。

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では、高天神城の歴史をおさらいしておきましょう。

歴史読み物 高天神城の攻防戦

一般の歴史資料を見ますと、高天神城では二度の大きな戦いがあったとされています。

1574年、武田勝頼が攻めた「第一次 高天神城の戦い」、1581年、徳川家康が攻めた「第二次高天神城の戦い」がそれになります。

しかし、実際はそうではありません。

ちゃんとした歴史の文献を紐解きますと、この二つの戦い前、1571年に武田勝頼の父、武田信玄が高天神城を攻めているんです。

戦国の歴史を語る上で、この信玄による高天神城攻めがとても重要になってきます。

元々、高天神城は、駿府から遠江、三河までを領地としていた今川氏の城でした。

「桶狭間の戦い」において、今川氏は織田信長に討たれます。

これによって高天神城の城主は、今川氏の人質だった徳川家康に付くことになります。

すると甲斐の武田信玄は、遠州侵攻を開始します。

「高天神を制する者は遠州を制する。」

と言われ、信玄は高天神城を攻めました。

しかしこの高天神城は、北、東、南は切り立った崖に囲まれた鉄壁の城。

信玄は、早々に攻め落とせない事を悟り、兵を引いたんですね。

当時最強と言われた信玄をもってしても落とせない城が高天神城なのです。

とはいうものの、信玄は遠江にある高天神城以外の徳川の城のほとんどを攻め落としていきます。

いよいよ家康が居城する浜松城攻めが始まると思いきや、信玄は浜松城を攻めず素通りしたんですね。

そこで家康が浜松城を出陣、武田軍と戦いました。

それが「三方原の戦い」です。

「三方原の戦い」で大勝した信玄は、先へ進みます。標的はそう、

織田信長。

あの信長が唯一恐れていた男がついにやってくる。

信長は、正直ビビッていたと思います。

しかし、ここで神は信長に味方します。

新城の野田城を攻めた直後、信玄は持病である胃癌が悪化、侵攻を諦め、甲斐に帰るも到着することなく命尽きたのです。

信玄は、自らの死期を悟っていたのでしょう、遺言が残されていました。

一、 自身の亡骸は諏訪湖に沈めること。

一、 三年は動かず甲斐を守ること。

一、 家督は四男勝頼の息子、信勝に任せる。但し、信勝が十六歳になるまでは勝頼が陣代とする。

などが書き記されていたそうです。

つまり、勝頼は「ワンポイントリリーフ」という扱いだったんですね。

信玄は勝頼の性格をよく知っており、勝頼では織田・徳川に対抗できないという事を見抜いていました。

勝頼は、「調子に乗りやすい性格」だったと言われています。

でも、勝頼本人は心中穏やかではありません。

「この汚名、晴らしてくれるわ!」

勝頼は、父の遺言を破り、三年を待たずして動き出してしまうのです。

父、信玄を越え、汚名を晴らすためにはどうすればよいか・・・。

「父が落とせなった城を見事落とせば、誰しもが わしの実力を知ることだろう。」

その城とはそう、

高天神城。

勝頼は、家臣の制止をも無視し、25000人という大軍を率いて1574年5月、高天神城を包囲しました。

それが「第一次 高天神城の戦い」です。

城兵は1000人、とても勝ち目はなく、家康に援軍を要請しました。

しかし勝頼は別ルートで別働隊も送っており、家康はそちらの対応をしなければならず援軍が出せません。

家康はすぐさま同盟関係にある信長に援軍を要請しました。

信長も救援部隊を出したが間に合わず、高天神城は武田の手に落ちたのです。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpeivlw天正二年(1574)の戦いでの戦没者の慰霊碑です。

「見たか!」

勝頼は、高天神城を落とした事で、その実力を内外に知らしめる事に成功しました。

しかし、これがきっかけで武田滅亡へのカウントダウンは始まります。

勝頼の悪い虫が出てしまったのです。

勝頼は有頂天になり、調子に乗って翌年15000の兵を率いて、長篠城を攻めにかかります。

それが、「1575年、長篠・設楽が原の戦い」です。

ところが、織田・徳川連合軍は、そう甘くはありません。

家康は自らの命運を賭け、設楽が原に兵を進めました。

その数、信長からの援軍も合わせてなんと38000人。

信長は、火縄銃3000丁を使い武田軍を圧倒しました。

勝頼はこの戦いで、多くの重臣を失い自身も死を決して戦おうとしましたが周囲の者が懸命に制止し敗走しました。

この負け戦により、武田はその勢力を徐序に失っていきます。

Varwwwclientsclient1web2tmpphp2ioeu城の西側斜面は唯一なだらかで、それゆえに「高天神城の弱点」とされていました。勝頼はここに空堀を掘り、その対策としました。堀は400年という年月でかなり埋まってしまいましたが、その遺構は痕跡としてしっかり残されています。

家康は、実に七年もの歳月をかけ、高天神城奪還の準備をします。

その間、陣城として横須賀城を築き、より確実に高天神城の奪還を目指していました。

1580年10月、遂に家康は5000人の兵を率いて高天神城奪還を図りました。

やはり、家康も「この城は力では落とせない。」という事を解っています。

家康は、力攻めではなく、兵糧攻めを行ないます。

食料の経路を断たれ、数ヶ月に及ぶ徳川軍の包囲により城内部は徐序に兵糧が尽き、餓死する者も出てきました。

勝頼に援軍を要請するも一向に来る気配はなく、

「もはやこれまで・・・。」

城主、岡部元信は家康に降伏を申し出ました。

しかし、ここで家康の元へ信長より書状が届きます。

「降伏を受け入れるな。」

それは城兵達にとって非情ともいえる書状でした。

城を出れば殺され、城に残れば餓死する。

もはや城兵達に残された選択は、「死あるのみ」という事態になってしまったのです。

落城寸前、武田軍の家臣 横田甚五郎は西側の尾根伝いに脱出に成功し、甲斐の勝頼に状況を報告に行きました。

Varwwwclientsclient1web2tmpphp3n5am「横田甚五郎の抜け道」です。尾根伝いに道が続いています。今回は結構なところまで行ってみました。この道を馬に乗って抜け、甲斐へ向かったといいます。

「親方様、無念です・・・。高天神は間もなく 落ちます・・・。」

それを聞いた勝頼は、目に涙を浮かべたといいます。

何故勝頼は援軍を出さなかったのでしょうか?

出せなかったのです。

家康は、関東の北条氏と同盟を結んでいました。

高天神城攻めに合わせて、北条氏に武田を攻めるよう要請し、援軍が出せないよう仕向けていたのです。

こと策略にかけては、家康のほうが何枚も上手でした。

1581年3月、岡部城主以下、生き延びていた城兵役700名は、遂に決心しました。

「このまま死んでたまるか・・・。」

彼らは二手に分かれ、城から討って出たのです。

しかし何も食べていない城兵達は、もはや動ける状態ではなく、次々に討ち取られ皆殺しの状態、「堀が死体で埋まった。」とも言われています。

あまりにも悲惨な最期でした。

P4050108_2三の丸から見た下界の景色です。海抜132メートルの高さの山に築かれた城です。

この戦いの後、勝頼は援軍を出さなかった事が名声を落とすきっかけとなり、翌1582年、織田・徳川連合軍に総攻撃をかけられるも、もはやそれに対抗する力は無く勝頼は自刃、武田家は滅びていくのでした。皮肉な事に父、信玄の予言が的中する形となってしまったのです。

歴史の文献を見ますと、武田勝頼は、武田家を滅亡に追い込んだ人物であるため武将としての評価は非常に低く書かれています。しかし決してそんな事はありません。勝頼はとても頭が良く強い武将でした。信長を翻弄し、家康を危機に追い込んだその実力は計り知れないものがありました。

そして高天神城は、そのまま城郭として改修されることなく、廃城となりました。

つまり、まさに戦国時代の遺構がそのまま残されているのが高天神城なのです。

通常、戦国時代の城は江戸時代に入っても藩の拠点として使われていたことが多く、戦が無くなった江戸時代は防御施設を取り払い、使いやすいように改修されているんですね。

そんな戦国時代の強くも悲しい爪跡が残った高天神城に私は、とてつもなく魅力を感じるのです。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpplwqn戦没者の慰霊碑です。

高天神城址には戦没者を祀った石碑がいくつもあります。

とても多くの戦士達が亡くなった高天神城にやはり私は特別な感情を抱いてしまいます。

彼らの武士としての忠誠、誇り。

そして死を決した時彼らは何を思い散っていったのか・・・。

ここにくると私は、少なからずその思いを教えられる感じがします。

一定の時が経つと私はどうしてもここを訪れたくなります。

そんな高天神城にくる度に私は戦没者の慰霊碑に手を合わせるのです。

安らかにお眠りください。もう戦う必要はないのですから・・・。

高天神城は、今日もただ黙って その歴史を語っています。

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城址内にある高天神社にこんな物がありました。

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私も一筆書かせていただきました。

「高天神城、なぜ100名城に入らない!」

と書きましたよ。

高天神城は、歴史的にとても重要であり、やっぱ名城だと思いますよ。

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2016/05/02

圧巻の大和高取城。

こんばんわ。

昨日、兄上と奈良の城攻めに行ってまいりました。

連休に入ったばかりなので、渋滞が懸念されましたが、大した渋滞にハマることもなく、行くことができました。

今回攻めた城は、「高取城」です。

スタミナに問題ありの私にとっては、「山城」というだけで難攻不落となります。coldsweats01

しかも、高取城は、「日本三大山城」に数えられ、麓からの高低差はその中でもTOPとなる446メートルという所に築城されたものスゴイ城なのです。

ワクワクする反面、士気が下がります。shock

まずは麓にある土産物屋さんで100名城スタンプをもらいながら情報を集めます。

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登り方などをリサーチしていると、本丸近くまでクルマで行ける事が判りました。

これはラッキー!

それでも、数百メートルは登らないといけません。

普通の山城攻めと同じぐらいです。

山城とは通常100メートル以上の山に築かれた城の事をいいますので、普通の山城というのは精々100メートルをちょっと越えるぐらいなんですよ。

そういう意味でも高取城がいかに高い所に築かれた城なのかという事が理解できます。

今年五十路を向かえるにあたり、体力・筋力の衰えを否めない私、やっとの思いで本丸到着です。weep

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正直、「圧巻」の一言につきました。

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このような素晴らしい石垣が見渡す限り積まれています。

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先程の疲労がどこかに吹っ飛ぶほどにテンションが上がりました。

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「こんな山の上によく造ったな。」と感心するばかりです。

人の力ってスゴイんですね。

400年前の方々に脱帽です。

高取城

別名 : 芙蓉城

種別 : 山城

築城 : 1585年

築城者 : 本多利久

南北朝時代に高取山の頂上に砦を造ったのが始めだと言われています。

1585年、羽柴秀長の重臣、本多利久の手のより天守閣などが築城されました。

この城での戦いは無かったようですが、大和の国を守る重要な拠点となっていました。

江戸時代になり泰平の世が訪れると、あまりにも高所にある城であるため、その使い憎さが不便となり、藩主をはじめ、家臣達も麓で暮らすようになったそうです。

明治の廃城令により、廃棄が決定しました。

しかし、やはりあまりにも高所に築かれていたため、石垣などは手付かず当時のまま遺構として残されています。

昭和28年、国の史跡に指定されています。

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太鼓櫓の石垣です。見事としか言いようがなく、言葉がありません。

Varwwwclientsclient1web2tmpphp2kjx4こんな高所に築城されているんですよ!誰が攻めるんですか!

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ちなみに「三大山城」とは、

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備中松山城、美濃岩村城、そして今回の大和高取城の三つです。

昨年、岩村城は登城していますので、山城は二つ制覇です。

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ちなみにこちらが岩村城の六段石垣です。

岩村城も圧巻でしたよ。

山の高さに翻弄されながらも、

高取城、攻略!

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2016/03/27

新東名で歴史探訪。

日本列島、至る所で桜の便りが聞かれるようになりましたね。

しかし、静岡県内は暖かい地域の割りには開花が遅れているようです。

月末になるようですよ。

さて、そんな今日、ウダウダしていてもしょうがないという事で、ちょっと出かけてきました。

先月、それまで静岡県内のみ開通していた新東名が、ついに愛知県まで開通しました。

静岡県から愛知県豊田市までの約55キロの区間です。

新東名はそのまま「東海環状自動車道」へ繋がり、岐阜、あるいは長野方面までかなりのショートカットになると思われます。

というわけで、ちょっとだけ目的を決めながら愛知県の新東名を体験してきました。

Dsc_1164_2_2いなさJC付近、この辺から今回開通したところかと思われます。

目的となる地は、静岡県と愛知県の県境の位置する街、「新城市」です。

新城にはインターチェンジが設けられました。

新城は昨年、長篠城攻めで訪れています。

もちろん今日も二回目の城攻めしましたよ。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpniaqo今、再びの城祉へ。

Dsc_1172_2遺構の堀もありますよ。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpgqau3本丸です。小さな城ですが、戦国時代はとても重要な位置にある城でした。

Dsc_1173_2なんと城祉のど真ん中を鉄道が走ってます!よく許可したなぁ。ちなみに飯田線です。

Dsc_1198_2今回は、しっかり「100名城スタンプ」を頂きました。一つ目の目的、達成です。

Varwwwclientsclient1web2tmpphp3cfm3「牛渕橋」。やっぱ長篠城はこっから見ないとね。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpn7qjo現在は「豊川」と呼ばれる左手の寒狭川(かんさがわ)と右手の宇連川(うれがわ)が、まさに交差する断崖に築かれてた要害な城です。

やっぱ城祉はテンション上がるなーっ!

長篠城では、徳川軍と武田軍と熾烈な争奪戦が繰り広げられました。

その戦において、一人の英雄が現れました。

「鳥居強右衛門(とりい すねえもん)」、その人です。

彼については、またいずれ書き留めますので興味がある方だけお読みください。

長篠城にほど近い場所にあるお寺さんに鳥居強右衛門さんのお墓があります。

本日、二つ目の目的、鳥居強右衛門さんのお墓参りです。

Dsc_1166_2そのお寺さんとは、「興国山 新昌寺」。

Varwwwclientsclient1web2tmpphphfwrsまだ新しく、とてもきれいなお寺さんでした。

その裏手の墓地に一際おおきな石碑があります。

Dsc_1168_2こちらが鳥居強右衛門さんのお墓になります。

お墓といいますか、狛犬が入り口を守っているので、もう神格化されてる感じもありました。

やはり、この地域では英雄的存在のようですね。

しっかりと合掌させていただきました。

ちなみに背後の小高い所は、新東名になります。

sun

では次なる目的地へ。

今日は家の掃除とかしていて出発時間がAM11:00過ぎになってしまったので、結構タイトなスケジュールで行動しています。

城祉とお寺ときたら、もうここも行かないと。

Dsc_1193_2三つ目の目的地、「設楽原古戦場跡」です。

昨年も見に来た「馬防柵」もちゃんとありますよ。

正面に見える森が武田勝頼の本陣になりますね。

現地を見て思う事は、設楽原は想像以上に狭いという事なんですよ。

ここで何万という兵隊が激突したというのが信じられないです。

約八時間続いた戦いは終始織田・徳川軍の優勢という感じだったんだと思います。

「無敵」といわれた武田騎馬隊も鉄砲には敵わなかったんですね。

設楽原を分断するように連吾川という川が流れているんですよ。しかもここは湿地帯だったといいます。

武田軍は、ぬかるみに足をとられ思うように戦えない状況だった事も大きな敗因だったんでしょうね。

やはり、自分の足で現地を歩くと、いろんな事が見えてきます。

そこが歴史探訪の醍醐味ですよね。

「長篠城の戦い」と「設楽原の戦い」を合わせて「長篠の戦い」と総称されてきましたが、最近ではこの二つの戦いは別の戦いとして分けた形で語られる事が多くなってきました。

実際現地に足を運ぶと、長篠城と設楽原は結構な距離があることがわかります。

武田軍も一度は、長篠城から兵を引いている事、織田本軍と徳川本軍が直接長篠城の戦いには参戦していない事を考えても、この二つの戦いは、私も分けたほうがいいと思います。

Dsc_1194_2これが現在の連吾川です。

連吾川小っさ!当時もそんなに大きな川ではなかったようですね。

黒澤監督の映画「影武者」では、影武者役の仲代達也さんが連吾川を流れていくシーンがラストだったんですが、人が流されるほどの大きさじゃないですよね。

Photoこちらの画像は、武田軍側から見たアングルになります。

およそ450年前、ここで凄い大勢の兵隊さんが討死したんですよね。

思わず手を合わせたくなるような空間でした。

そこから西へちょっと行ったところ、本日四つ目の目的地は、新東名開通と共にオープンした「長篠設楽原PA」です。

もちろん、このPAは一般道からも入る事ができます。

まずは下り側のPAから。

Dsc_1175_2長篠設楽原PAは、戦国ファンにはたまらない、パーキングエリアになっています。

ほら、織田の御紋と徳川の御紋があるでしょ。

下り側は、「織田・徳川軍」をテーマにデザインされ、上りは「武田軍」をモチーフにデザインされています。

でも、実際武田軍は東から攻めてきているので、方向的には逆じゃないかと思うんですよ。

なるほど理由がありました。

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なんと下りPAの直ぐ横の山は、「設楽原の戦い」の時、織田信長様が本陣を置いた場所「茶臼山」なんですよ!

さすがに織田軍本陣の真横に武田側のPAがあってはシャレにならないですもんね。

PAからそのまま歩いて登れます。

Varwwwclientsclient1web2tmpphptgbje信長様本陣跡から見た、PAになります。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpiggvt歴史に全く興味がないような方々も大勢見学してました。

まぁ、信長様は有名ですからね。

Dsc_1178_2自販機も信長調にモチーフされていておもしろいです。

Dsc_1176_2中には、戦国グッズコーナーもあり、太刀とか火縄銃とか売られてましたよ。

人がごった返していたので今回も何も買わずに退散です。

もちろん上り側も行きましたよ。

Dsc_1179_2上りは、武田菱の御紋がありますね。

やっぱ戦で負けちゃったからでしょうか、若干トーンダウンしている感じの作りでしたね。

Dsc_1184_2こちらの自販機にも武田の兜がありましたよ。

こうして本日の目的は終了です。

テンション上がってあっちこっち行っていたので、結構疲れましたね。

やっぱ歴史探訪は、本で見るのと、現地を見るのとでは大きな印象の違いがありますね。

現地の地形を自分の目で見ればこそ解ることが非常に多いです。

これからもなるべく現地へ足を運んで勉強します!

では。

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2015/11/01

ぶらりベンリィの旅 ~奥浜名湖巡礼編~

休日が晴れですと、自然とお日様の下へ出たくなりますよね。

お日様は命の源ですから、一日に一回は紫外線がどうのこうの言う前に、日光を浴びたほうがいいです。

特に朝日を浴びることは、体内時計をリセットする役目があり重要な事なんだそうです。

朝日に向かい、合掌。

私はもう、何年も続けています。

sun

さて、そんな今日、朝からまた巡礼の旅です。

ここんとこお寺さんばかり行っているので、私自身が仏様になってしまいそうです。

confident

いや、いや、いや、まだ仏様になりたくありません!

あぶない、あぶない。危うく仏様にされるところでしたよ。

┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~

「来年の事を言うと鬼が笑う。」と言いますよね。

じゃぁ、再来年の事を言います!

再来年のNHK大河ドラマは、なんと浜松市なんですよ!

奥浜名湖と呼ばれる地域、浜松市北区引佐町に「井伊谷」という所があります。

そう、この「井伊」とはあの徳川四天王の一人、井伊直政の生誕地なんですよ。

大河ドラマはこの「井伊家」のお話をドラマ化するようです。

井伊家には、「井伊直虎」という男の名前を持つ女城主がいたんです。

その物語なんですね。

女城主役には、柴崎コウさんが決定しています。

柴崎さんはとてもお着物が似合う女優さんなので、イメージはぴったんこですね。

来年の「真田丸」も楽しみですが、再来年の「おんな城主 直虎」も楽しみです。

という訳で、今日はそれを記念して、井伊家のお墓参りに行ったわけです。

ミーハーですよね。

そのお寺さんとは井伊家の菩提寺、「龍潭寺(りょうたんじ)」です。

井伊谷宮という神社のほぼ隣にある地元では有名なお寺さんです。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpojeu9大門(山門)です。

大河ドラマ発表があったので、早くも結構な人数の観光客の方がいました。

人がいなくなるタイミングを待って撮影です。

Varwwwclientsclient1web2tmpphp5nlqtこちらが本堂ですね。

龍潭寺

山号 : 萬松山

宗派 : 臨済宗 妙心寺派

創建 : 733年

ご本尊 : 虚空蔵大菩薩

龍潭寺のある井伊谷、元は「井の国」と呼ばれていました。

平安時代に井伊氏がこの土地の有力者となり、永きにわたり井伊家を存続することになります。

特に徳川四天王の直政は有名で、徳川家康の天下取りに多大な貢献をしました。

関ヶ原の戦いで家康率いる東軍が勝利し直政は、彦根へ移りました。

彦根にも井伊家の菩提寺、「彦根龍潭寺」があるようです。

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ご本尊です。

Varwwwclientsclient1web2tmpphp3fr_2庭園が有名なんです。

縁側になっており、観光客の皆さんが腰掛けて鑑賞していました。

井伊家の墓所です。

Varwwwclientsclient1web2tmpphp7no_2一番手前が直政、奥から二番目が直虎のお墓だそうです。

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帰りは仁王門をくぐり帰ります。

Varwwwclientsclient1web2tmpphplg9vaもう少し時期が過ぎれば、美しい紅葉が拝めそうです。

とてもいいお寺さんでした。

参拝の証に、御朱印いただきました。

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いよいよ浜松も大河ドラマですよ。

戦国時代には、いろいろあった地域ですからね。

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「井伊城」もあったらしいので調べてみたらありましたので、城祉を確認にいきました。

とてもわかりづらいところにありました。

引佐図書館の裏山が城だったようです。

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現在は公園になっているようです。徒歩じゃないといけないので、急遽登山です。

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あ~疲れた・・・・。

本丸ですわ。

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ありましたよ。

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ほとんど遺構は残されていませんでした。

館跡に盛土が残っているぐらいでした。

ケツは痛いし、遺構は無いし、もうここは井伊です!

ああ、いいです。

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もう一つ、大きなお寺さんを目指しました。

龍潭寺からもっと奥へ入っていきます。

これまた浜松市北区引佐町奥山、「方広寺」です。

地元では、「奥山半僧坊」と言ったほうが通じます。

今回はちょっとズルをして、山門をくぐらず、いきなり頂上へいきました。

さっきの登山が堪えています。

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頂上です。結構な山の上ですよ。

ここで拝観料兼、駐車料金400円を払います。

バイクもクルマも400円ですよ。

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いきなり三重の仏塔がお出迎え。

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でた!本堂がでかい!

方広寺

山号 : 深奥山(じんのうざん)

宗派 : 臨済宗方広寺派

創建 : 1371年

ご本尊 : 釈迦三尊

臨済宗方広寺派の大本山になります。

禅寺なので、曹洞宗永平寺と同じく、建物に豪華な装飾などはありません。

それでも観光客が耐えない名の知れたお寺さんです。

春には桜の花がきれいで、名物の「あんまき」を食べながら桜を鑑賞する人でいっぱいになります。

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近くで見る本堂。その大きさに圧倒されます。

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本堂の縁側です。

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「深奥山」。題字はあの山岡鉄舟だそうですよ!

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本堂の中は静かでとてもいい雰囲気です。

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釈迦三尊のいらっしゃる本堂内です。ちなみにご本尊の撮影は禁止です。

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とても広くてすべて載せきれないので、割愛します。

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紅葉はまだのようですね。

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もちろん、半僧坊大権現のほうも御参りしましたよ。

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御朱印いただきました。

普段は拝観にきても本堂しか見ないんですが、今回は方広寺の見れるところはすべて見ました。

何度もいうようですが、この歳になるとお寺さんから得るもの大きいです。

今週のお寺巡礼。とてもいい時間でした。

合掌。

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来週は、浜松基地航空祭です。

それにしてもMDさん、忙しい人です。


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2015/10/24

秋の伊賀攻め!

火曜日ごろから、どうも左腕の関節が痛かったんです。

思い当たる節がなく、原因が解らなかったんです。

ふと、どこかの爺さんが言っていた事を思い出しました。

「じじぃになると、疲れや痛みが遅れてやってくる。」

flair

そういえば先週の土曜日、イーハトーブに乗ったんです。

その時、天竜川の河原を疾走したり、堤防の土手を登ったり降りたりトライアルごっこをしたりしていたんです。

もしかしたら、それなのかもしれません。

だとすると、かなり情けないなぁ・・・・。

sad

さて今日は、先日の城攻め報告の続きですよ。

ここからは、お好きな方だけどうぞ!

「伊賀の城攻め」

「伊賀」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、やっぱ「忍者」でしょうね。

「忍び」とか「間者(かんじゃ)」って時代劇では呼ばれてますよね。

伊賀の街に入ると、アトラクションとかの施設や土産物などに至るまで忍者一色といった感じがあります。

でも残念な事に、テレビや映画、物語などで見る、あの黒装束の忍者って本当は存在していなかったようですね。

ただ、戦国時代も江戸時代も忍者の存在はあったようです。

但し、身なりは普通の町人や武士という極めて普通の格好をしていたようです。

戦国時代のイメージは、城攻めをして城を落としたり、槍を持って野戦をして大将の首を獲る!といったイメージですよね。

でも、意外にも戦国時代は、情報戦が勝敗を決める場合がほとんどだったのです。

その時情報集めに活躍するのが、「忍び」だったんですね。

よく、「謀反の動きあり。」という情報を得て、討伐に向かう。という話がありますよね。

その謀反の動きをいち早く察知し、大将に知らせるのがまさに「忍び」の役割です。

おそらく敵の中に潜り込んで諜報活動をしていたんでしょうね。

まさに「007」の世界です!

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「伊賀上野城」に登城。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpa0z4z個人的にずっと見たいと思っていた城のひとつ「伊賀上野城」。

やっと願いが叶いました。

伊賀上野城のゆるキャラ、「た伊賀ーくん」もお出迎え。

この天守閣は、復興天守と言われる物で、川崎 克という方が個人的に築城された城です。地元の名士だったんですね。

完成が「昭和10年」とされていますから、復興天守と言えども歴史のある城なんですね。

意外にも街中に建てられている感じでした。

周辺には学校や役場などの施設がありましたね。

考えてみればそれもそうなんですよね。

基本的に昔の町作りは城を中心に作られていますから、町の中心部に城があって当たり前なんですよね。城下町というぐらいですから・・・。

今更なんですが・・・。

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伊賀上野城

別名 : 白鳳城

種別 : 平山城

築城年 : 1585年 1611年改修

築城者 : 筒井定次 藤堂高虎

元々は、筒井氏が三層の天守を築いた。

関ヶ原の戦い後、実質的に豊臣政権は徳川政権と移行していく。

その頃、家康は伊賀国を築城の名手、藤堂高虎に任せ、この伊賀上野城を五層の大天守にすべく改修をさせた。

だが、完成間近の天守は1612年の暴風雨で倒壊、築城は取りやめになった。

ただ、最初の着手した高さ30mにも及ぶ高石垣は見事な物であり、藤堂高虎の築城技術の高さを垣間見ることができる。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpoued3堀の見事さもさることながら、この石垣は圧巻である。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpqofcl石垣には、「武者返し」も取り入れられている。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpvop05「危ない!」という言葉すら耳に入らないほど、夢中でシャッターを切る私。

Varwwwclientsclient1web2tmpphphcwtu石垣のあまりの美しさに放心状態となり、堀に飛び込もうとする気持ちをギリギリの理性で抑えている私。

Varwwwclientsclient1web2tmpphph5gqvもはや「復興天守」と呼ばなくてもいいぐらいの天守閣です。

実はもうひとつ伊賀上野城で調査したい事がありました。

1980年、黒澤 明監督の映画「影武者」のロケで、この伊賀上野城が使われたという情報があったのでその場所を特定したかったんです。

武田信玄が野田城で狙撃されるという設定の「影武者」なのですが、その狙撃されたとされる場所のロケに使われたのがここの通路らしいんですよ。

Varwwwclientsclient1web2tmpphppreyg散策してみましたが、残念ながら特定には至りませんでした。私の記憶にも曖昧なところがあるので、「影武者」観てから行くべきでした。

「死ぬ時はこの石垣から・・・。」と、密かに自らの死に様を想像しながら、

伊賀上野城 攻略!

続きまして、

「松阪城」に登城。

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「松阪」と言えば「松阪牛」ですよね。でも私は、食べ物に興味がないので流します。

だったら言うなよ!

Varwwwclientsclient1web2tmpphp3qqir松阪城 本丸の石垣です。
正直、あまり期待していなかったのですが、さすが100名城に名を連ねているだけの事はあり、石垣が凄かったです。

松阪城

種別 : 平山城

築城年 : 1588年

築城者 : 蒲生氏郷

三重の天守があったとされ、天守台が遺構として残されています。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpu9w3r天守台です。

どこか安土城を彷彿とさせるほど石垣にこだわりが感じられます。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpxbdyg天守台を目指すには、何度も何度も曲がりくねった通路を登るように防御されています。

角にはしっかりと虎口が設けられ、おそらく築城には、かなり城に詳しい技術者があたっていたんじゃないでしょうか。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpuworx城の外周は、見事な石垣に守られています。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpapljrこんな感じで、完全に町に溶け込んだ感じの城でした。

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復元天守でもあれば、かなりいい城になっていたと思います。

松阪市さん、牛をたくさん売って天守閣を復活させてください。

と余計なお世話を発言をしながら、

松阪城 攻略!

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2015/10/21

~優しき戦国武将~ 小谷城址へ。

平日です。

今日は城攻め報告ですよ。

お好きな方だけどうぞ!

先日の日曜日(10/18)の事。

兄貴から出陣命令があり、「伊賀の城攻め」を慣行いたしました。

と言う割に始めに攻めたところは近江なんですが・・・・。

今日は、とりあえずそこからいきます!

「小谷城址」

Varwwwclientsclient1web2tmpphpffoce影で読みづらいですが、石碑には「小谷城址」と書いてあります。

小谷城は山城なんです。

はじめに白状しておきますが、今回は登りませんでした。

これなんですよ。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpggvtv最近、熊が出たらしいですよ。そりゃ登山やめますわな。

っていうか、「疲れる」という理由のほうが全体の8割を占めているという事を白状です!

Varwwwclientsclient1web2tmpphpfzlvhもちろん、入り口までは行ってますよ。説明看板や縄張り図の確認をし、周辺の雰囲気は堪能できました。

Varwwwclientsclient1web2tmpphp5fjiy現在は登れませんが、ここが大手道でした。登られる方は、ちゃんとした道がありますよ。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpcjesq入り口付近に、浅井家の家紋が入ったでかい兜がありました。

ああ、「浅井」は、「あざい」と読みます。

では、小谷城について簡単に説明を。

小谷城

種別 : 山城

築城 : 1523年

築城者 : 浅井亮政(すけまさ)

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やさしき戦国武将 浅井長政

小谷城は、浅井氏三代が代々受け継いだ城である。

浅井家の中では、三代目の長政の名がよく知られている。

1561年、長政は、織田信長と同盟をむすんだ。

その時、信長は妹の「お市」を長政の嫁に出すことにで、同盟関係をより強固なものにしようとした。

まさしく政略結婚そのものであった。

しかし、誠実で優しい性格の長政と、「戦国一の美女」とも言われる程美しかったお市は、互いに惹かれ合い、戦国時代には珍しく恋愛結婚に近い程仲むつまじい夫婦であったらしい。

その証拠に、子宝にも恵まれ三人の娘達がいた。

「茶々」、「初」、「江」は、「浅井三姉妹」と呼ばれ、後に歴史を動かす程の人物になっていく。

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浅井家は古くから越前の朝倉氏と深い付き合いがあった。

長政は信長に同盟を結ぶ条件として、「朝倉を攻めない」ということを約束させた。

だが信長は、その約束に反し、朝倉攻めを行う。

長政は、実直な信長を取るか、義理で朝倉を取るか、究極の選択を迫られた。

長政は、祖父の代から世話になってきた朝倉氏を助けるほうを選択をし朝倉軍に加勢した。

だが、この行為が信長の怒りに火を点けてしまった。

浅井・朝倉連合軍 対 織田・徳川連合軍

が相対することになる。

1570年、「姉川の戦い」である。

野戦を得意とする家康は、その強さを示す形で朝倉軍を倒し、浅井軍も敗走を余儀なくさせた。

そして1573年、遂に織田信長は、浅井長政の居城 小谷城に総攻撃をかけた。

燃え盛る小谷城。

その火中で長政は自刃し、29歳という若さで生涯を終えるのだった。

信長に攻め込まれる直前、長政は愛する妻、お市にこう言った。

「娘達を連れて逃げてくれ。そしてきっと生き延びてくれ・・・。」

しかしお市は、それを拒否し、一緒に死ぬ事を嘆願したという。

長政は根気よく説得を続け、ついにお市は長政のその優しさに折れた。

お市は、娘達を連れて小谷城を後にした。

後にお市は、信長と再会。

信長は、お市とその娘達をとがめることはしなかったそうだ。

戦国という時代、小さな幸せすらも許されず灰と化す時代。

そんな時代に、優しく、義理堅く、誠実だった戦国武将

浅井長政

彼は産まれる時代を間違えてしまったのではないかと、私は強く思うのだった。

もっと人気があってもいいと思う長政に敬意を表し、

小谷城 攻略! (一応)

次回は、伊賀攻めです。

伊賀上野城、松阪城、攻略に着手!

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2015/10/03

越前の城攻め~聖地へ。

もう季節は、本格的な秋ですね。

朝夕は、冬の気配が感じられるほど冷え込むようにもなりました。

季節が涼しくなりましたので、本日より兄弟城攻め再開です。

再開に選んだ地は、越前国。

なぜ越前なのか?

なぜ越前でなければならなかったのか?

理由は特にありません。smile

では、越前攻め開始です。

まず、越前と言えばこの城ですね。

「日本最古の天守閣」と言われる現存天守を持つ城。

「丸岡城」。

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日本には、現存天守が12城存在します。

その中でも最も古い建築様式で築城された城になります。

現存天守は、江戸時代に建てられたものがほとんどですが、この丸岡城は、戦国時代に建てられた日本最古の天守閣と言われております。

しかし残念なことに、この天守閣以外の遺構は残されていません。

当時の縄張り図によれば、周辺には立派な堀が張り巡らされていました。

天守周辺を兄貴と確認してみましたが、やはり遺構はないようでした。

Varwwwclientsclient1web2tmpphp8ip_2「俺は戦国武将!」と言わんばかりにポーズを取るも、若干のイタい感じが隠しきれない天守閣入り口前での私。

丸岡城

別名 : 霞ヶ城

種別 : 連郭式平山城

築城 : 1576年

築城者 : 柴田勝豊

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明治の廃城令により、天守以外の遺構が失われた丸岡城。

しかし、この天守閣のみが残された。

やはり取り壊すには惜しい程の存在感が当時にもあったのではないだろうか。

1948年に起こった福井地震により倒壊するも、ほとんど元の部材を使用し修復が行われたという。

地元の熱い心、そしてこの城に対する愛情が現在の丸岡城を支えているに違いないと私は思わざるを得ない。

それがある限り、何が起ころうと丸岡城は、何度でも復活していくであろう。

そんな現存天守に敬意を払いつつ、

丸岡城、攻略!

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戦国時代の越前といえば、まずこの二人の武将の名がまず頭に浮かびますね。

浅井長政そして、朝倉義景。

この二人の大名は、祖父の代から同盟関係にありました。

しかし、この二人は一番怒らせていけない相手を怒らせてしまいました。

織田信長。

信長様の手によって、この二つの大名は滅びゆくのが歴史なのです。

今日は、信長様の手によって焼くつくされた朝倉氏の城、

「一乗谷城」の遺跡を見にいきました。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpwqk4oやはり、越前は浜松から距離があり、馴染みが薄いせいでしょうか、私も朝倉氏についてあまり知識がないままの遺跡見学となってしまいました。

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昭和40年頃、当時田畑だったこの土地を福井市が買い上げたんだそうです。

それは、もちろん焼き尽くされた朝倉氏の館の遺跡を発掘するためでした。

おそらく遺跡が残っているかも解らない状態での土地の買い上げだったんでしょうね。

内心はヒヤヒヤの福井市だった事でしょう。

しかし、遺跡は見事に発掘されました。

また出土品もとても貴重な品が次々と発見され、歴史学上、とても重要な資料となったそうです。

現在では、国の重要文化財に指定されています。

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もちろん、信長様によって焼き尽くされているので、現存する建物はありません。でも、たくさんの建物が当時の雰囲気を彷彿させるかのように復元されています。

ここで、ソフトバンクのCM撮影も行われたそうですね。

Varwwwclientsclient1web2tmpphp0fwku「朝倉氏の館」のほうは、「唐門」のみが復元されていました。

まさに谷の全部が朝倉氏の屋敷といった感じで、とにかくその大きさに驚きます。

とても力のある大名だったんですね。

一乗谷城址は、後ろの山の頂上、標高約400メートルのところにあるそうです。

今日は時間の都合で城跡まで行く事はできませんでした。

広大な土地の中に発掘された遺構が数え切れない程存在していました。

とても見応えのある遺構です。

どうやらこの地元での朝倉氏は、大変尊敬されているようですね。

おそらくボランティアであろうガイドさん達も、熱心に朝倉氏について教えてくださいました。

たとえ滅んだとしても、やはりその地元を守ってきた大名は、時代の移り変わりに関係なく尊敬され、崇拝されるんでしょうね。

だから歴史っていうのは凄いんです。

歴史を学ぶ大切さを実感しながら、

一乗谷城、攻略!

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もう一箇所、私にとっては「聖地」ともいえる場所に行ってまいりました。

我が家の菩提寺は曹洞宗なんです。

その大本山は、「永平寺」なんですよ。

永平寺もまた福井県にあるんです。

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正直、テンション上がりました。

永平寺で合掌できたらそりゃ本望ですよ。

Varwwwclientsclient1web2tmpphprm7ipホントに来ちゃいました。ヤバいですよ。

Varwwwclientsclient1web2tmpphphbisu参拝に500円かかります。もちろん賽銭は別ですよ。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpsb8ucこういった廊下を歩いて法堂をめざすわけですよ。

歩くと足音が木魚の音に聞こえるんですよね。

そういう設計だそうですよ。confident

それはウソです!smile

永平寺は修行寺なので、京都や奈良のお寺にあるような煌びやかな装飾は一切ありません。

そこがかえって本格的に思え、テンションが上がるところでもあります。

お坊さんになるためには、やはり資格のような物、「僧籍」というものが必要のようです。

仏教大学で仏教を学ぶか、あるいは家が寺である場合などが一番僧侶になるには近い道だというお話です。

いづれにしても、仏門に入り、永平寺のような修行寺で2~3年修行することが必要なんですね。

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法堂に合掌する「修行僧」・・・、では無く、この私です。

よくお寺さんで参拝する時、「~になりますように。」というような願い事をする方がいますが、ちょっと違うんですよ。

「お願い事」をするのは、神社さんでの参拝なんですね。

お寺さんの場合は、基本的に「どうぞ見守っていてください。」これだけなんです。

仏様は基本、何もしてくれないんですよ。

ただ見守ってくださるだけです。

それがありがたいんですね。

仏教の考えはすべて自分で行うのが基本なので、誰かに何かを頼むという事はしないんですね。

だからそれが修行なんですね。

神道は、確か修行などしなくても試験だけで神主の資格が得られると思いました。

そこが、仏教と神道の違いなんでしょうね。

「神頼み」という言葉はありますが、「仏頼み」という言葉はありませんよね。

日本はこの二つの教えが決して敵対することなく共存しているという、まさに「奇跡の国」だということを日本人は、もっと誇りに思ってもいいと私は思うんですが。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpebi_2「仏殿」です。こちらでも参拝します。

Varwwwclientsclient1web2tmpphp2hih9「山門」から「仏殿」を見上げます。

「山門」は四天王が守っています。

Varwwwclientsclient1web2tmpphphyulsとても心が清められる永平寺でした。

Dsc_0824_2参拝の証として御朱印をいただきました。ありがたいですね。

せっかく菩提寺の総本山に来たので、すごい勇気を振り絞って、御朱印帳を購入してしまいました。

Dsc_0825_2御朱印300円、御朱印帳1500円を納めました。

でも後悔はありません。

もう一つ、最近「般若心経」を覚えているので、携帯用に購入しました。

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元々頭が悪いので、ある程度の所でお経が頭にINPUTされません。

くやしいです!

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ちなみに最近、私のクルマの中は、ずっと「般若心経」が流れています。

なかなか「スピードラーニング」のようにはいきませんね。

まぁ、長い年月をかけて覚えますよ。

修行は一生終わらない訳ですから。

合掌。

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こうして、越前の城攻め、永平寺参拝は終了です。

今回は、いつもにも増して、私の人生にとって意味の深い旅となりました。

今後は、城攻めのみならず、お寺さん参拝も行っていくことになりそうです。

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2015/08/12

遺構へ行こう!

昨年2014年、浜松城の横にある市の駐車場で、空堀の跡が発見され、発掘されました。

調査の結果、戦国時代の堀であることが判りました。

それまで浜松城に残されていた石垣などの遺構は、そのどれもが江戸時代に入ってからの遺構でした。

しかし、今回発見されたこの堀は、なんと家康居城時代の遺構であるということで歴史学者の間でも大変注目されています。

私と兄も注目しています。

この程、やっと一般公開となりましたので、兄と行ってきました。

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兄にとって浜松城入城は実に数十年ぶりということです。

「灯台もと暗し」

と、兄も格言を用いた表現をしていました。

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簡易的に建てられたプレハブの資料館があり、出土した物などが展示されていました。

こちらが発掘された堀の断面クレイモデルになります。

Varwwwclientsclient1web2tmpphp16mli実際の遺構を特別な処理をして固め、制作するそうです。そんな技術があるんですね。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpvqlvgdDこちらがその説明です。ちゃんとガイドさんも常駐しており、解りやすく解説してくれます。

では、いよいよ本物の遺構を見てみましょう!

Varwwwclientsclient1web2tmpphpr9rapこれが堀を埋めた跡だそうです。確かに地層のようになっていますね。

興味ない人にとっては、ただの「土」に過ぎませんが、歴史好きの人の心の中は、一気に450年前にタイムスリップします。

それが「歴史のロマン」なのです。

Varwwwclientsclient1web2tmpphp5ng3u「天守曲輪」からみた発掘場です。テントの中に先程見た遺構があります。

いやぁ、いいもん見ました!

天守門の中にこういったものも展示されてました。

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家康が、「三方原の戦い」で信玄に大敗したあと、自分への戒めとして絵師に描かせた「しかみ像」。その3D版です。

でも、3Dにする必要あります?

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地元の情景作家、山田卓司さんが制作した、「敗走」です。こちらも「三方原の戦い」の一場面を3D化したものです。

こちらはとてもいい出来でした。欲しいぐらいでした。

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家康の堀の公開は9/14まで、入場は無料です!



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