歴史 

2017/08/19

歴史探訪 「桶狭間の戦い」

「ゴジラ展」に行った日、帰りに歴史探訪もしましたので書いときましょうかね。

「ゴジラ展」は名古屋で行なわれています。

名古屋にも史跡がたくさんありますね。

歴史的にはとても重要な地域です。

戦国時代といいますと、やっぱり信長、秀吉、家康の三英傑を連想してしまいますよね。

でも、この三人は戦国時代といっても末期に活躍した武将というのは皆さんもご存知なところです。

その前の世代となると、やっぱ戦国最強とも言われる男がいます。

武田信玄です。

信長が恐れ、家康が尊敬していたとも言われる武田信玄。

あまりにも有名です。

でもこの世代、この人をお忘れではないですか?

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駿府の大大名、今川義元ですよ。

今回の歴史探訪は「今川義元、最期の地」を訪れたんですよ。

その前に今川義元について少し話を。

歴史的には、「天下のやられ役」とか「馬に乗れない武将」とか、何かとマイナスなイメージが先行してしまう今川義元ですが、実は凄い武将でした。

その義元が領有していた地域の広さをみてもその力の大きさが解ります。

西は三河から遠江、東は駿河まで領有していた訳ですから相当な力があったんです。

当時は、「今川が天下を治める。」とも言われていたそうです。

また「甲相駿三国同盟」と言って、甲斐の武田、相模の北条とも同盟を結んでおり、その中心に君臨していたので、誰も逆らう事などできない程の強さがありました。

資料には「馬に乗れなかった。」と書かれてはいますが、武術のほうは長けており、弓の名人で「海道一の弓取り」と異名をとっていたそうです。

義元の強さは、その家臣達の力量が大きく係わっています。

中でも今川家の軍師、太原雪斎はとても大きな力で義元を支えていました。

太原雪斎は、天才とも言われる程の頭脳の持ち主で、人質だった子供の頃の徳川家康を教育した事でも有名ですね。

「家康がもし雪斎の教育を受けていなかったら天下は獲れなかった。」とも言われています。

そんな優秀な家臣達に支えられ、義元はその勢力を広めていったんですね。

でも、雪斎が死没するとその力にも陰りが見え始めました。

領地拡大を企てた義元は、織田家の領有する尾張国に侵攻しようとしました。

しかし、若き日の織田信長による奇襲戦法によって討ち取られ生涯を終えてしまったんですね。

それが「桶狭間の戦い」です。

この戦いが今川軍が大軍勢で侵攻したにも係わらず少人数の織田軍に討ち取られたという事から、「天下のやられ役」と呼ばれてしまうようになってしまったんですね。

今回はその今川義元が討ち取られたとされる地、「桶狭間」を訪れた訳です。

桶狭間は現在の名古屋市緑区内にあります。

「桶狭間」という地名も現存していますよ。

ただ、実際に義元が討ち取られた場所は正確に特定されていないのが現状で「おそらくこの辺」という扱いになっているみたいです。

Dsc_0816_2記念として今は公園になってました。

Dsc_0812_2その時戦った二人も、今は仲良く並んでいましたよ。

Dsc_0814_2若き日の信長様、凛々しいですね。

わずか2000人から3000人の軍勢で10倍の軍勢を破ったんですから、一気に格が上がったでしょうね。

ここから信長様の快進撃ですもんね。

公園はとてもキレイに整備されていました。

地元の方々の「桶狭間愛」がとても感じられました。

当時の陣形図がジオラマ化されていて、とてもおもしろい公園の作りになっていました。

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桶狭間は私の歴史探訪の中で念願の地でもあったので、訪れることができてとてもよかったです。

やっぱ歴史を学ぶ事は大切ですね。

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2017/07/30

早朝歴史探訪。

毎日暑いですね。

毎日ギリギリで仕事してますわ。

さて、今日は自宅で仕事があったので、「それだけで終わってたまるか!」という事で早朝ツーリングへいきましたよ。

いつも田舎道をのんびり流しに行っているので、今日は街中へ行きました。

浜松の街中といえば、やっぱ歴史探訪になりますよね。(ホントか?)

浜松の街中に戦国の史跡が多い事は歴史マニアにはよく知られている事なんですよ。

いつもは人通りやクルマの往来が激しい街中も早朝ということで、その影もまばらです。

とりあえず、その中心 浜松城をめざしました。

Dsc_0741_2でも、浜松城の天守には行きません。

行ったところはココです。

Dsc_0738_2「鎧掛松」。天守の南に位置します。

「三方原の戦い」で武田軍に惨敗し敗走した徳川家康は、命辛々浜松城に帰城しました。

疲れ果てた家康は、城内にあった松の木に自らの鎧を掛けて休んだと言われています。

もちろん当時の松の木は既にありませんが、三代目として植えられたのが現在の「鎧掛松」なんですね。

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詳しい場所は浜松市役所の西側とお考えいただければ判りやすいと思います。

ところで、城がある街の役場は、城跡の中に建設されていることが多いですよね。

県内では静岡市も同じで、駿府城の城内に市役所や県庁も入っていますよね。

やはり、城というのはその街の重要拠点ですから、戦国時代も現代もそれは変わらない訳ですよね。

街づくりって、城を中心に作られているってことがよく解りますよね。

現在の浜松城は公園化され、縮小された形で残されているので、観光で訪れた方は「小さい城だな。」と思うかもしれません。

でも、現在見ている浜松城は城のごく一部に過ぎず、実は大規模な城であった事が解っています。

もちろん浜松市役所もその史跡の真っ只中に建設されていますね。

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もう一箇所、史跡を回りました。

浜松城から今度は東へ向います。

市内を南北に走る私鉄 遠州鉄道。

その遠州病院駅の直ぐ下にも史跡があります。

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江戸幕府二代将軍 「徳川秀忠公 誕生の井戸」です。

初代の家康は長きに渡り浜松に居住し、二台目将軍はココ浜松で生まれたって、凄いじゃないですか浜松って!

Dsc_0744_2もちろんこれも当時の井戸が現存しているわけではなく、あくまでも「この辺りにあった。」とされる言い伝えから作られたものです。

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秀忠は家康の側室、西郷局が産みました。

家康の正室 築山殿との間に生まれた信康が徳川家の嫡男でしたが武田との内通が疑われたため、二俣城で自刃しました。

それと同時に築山殿も殺害されたため、事実上徳川家の跡取は側室からということになったわけです。

そして家康が選んだのが秀忠という訳です。

家康も「ヨイショ」がうまいところがあって、信長の世話になっている時代は息子の名前に「信」という文字を入れ「信康」と命名したり、秀吉に世話になっている時代に生まれた息子には「秀」という文字を入れ「秀忠」と命名していたんですね。

そうすることによって忠誠心を示すという気持ちがあったのでしょうね。

でも、それは表向きで実は虎視眈々と天下獲りのチャンスをうかがっていたんです。

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こうして本日約二時間におよぶ早朝ツーリングはおしまい。

歴史探訪はやっぱおもしろいです。

では。



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2017/03/05

遂に見た!本多忠勝の魂。

今日はリベンジですね。

Autoxvjmxm2コレですよ、これ!

前回せっかく行ったのに、早合点から観る事ができなかった「蜻蛉切」を観に行ったわけですよ。

刀剣マニアの間では、かなりザワついているみたいですよ。

知らなかった方のために、何がそんなに凄いのか簡単に説明します。

刀剣界では、「天下三名槍」とよばれる三本の槍が存在するのですが、その三本は佐野美術館など日本の各地に保管されているんですね。

その三本が奇跡的にここ、島田市博物館に集結するというわけです。

Dsc_0275_2島田市博物館

三本が揃う期間は、2/25~3/5までのわずか10日弱の期間。

今日が展示期間の最終日ということで焦って行ったんですよ。

臨時駐車場にクルマを回され、驚くほど拝館者がいました。

若い女性が多い事に驚きましたね。

「刀剣女子」とか流行ってるらしいです。

男子はアイドルに夢中、女子は刀剣に夢中、よくわからない時代ですわ。catface

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目的はもちろん本多忠勝の「蜻蛉切」を鑑賞することです。

本多忠勝を崇拝する私のとっては、どうしても観ておかなければならないのが「蜻蛉切」なんです。

ついに見ちゃいましたよ!happy01

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もちろん館内は撮影禁止なので皆様にこのブログでお見せできないのが残念なのですが、正直ヤバかったですね。

この世にあんなに尖がった物があるという事が信じられないぐらい槍の先端が尖っていました。

ただ残念だったのは、展示されていたのは槍の刃部のみで、柄の部分は展示されてなかったんですよ。

本多忠勝の「蜻蛉切」は とにかく他の槍と比べると考えられない程に長いと言われていました。

レプリカでもいいので展示してもらい、柄の長さを目に焼き付けたかった感じはありますね。

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島田市博物館は、大井川堤防沿いにあります。

ここは昔、川を渡る場所だったので「川越」と呼ばれています。

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輿に乗って渡ったり、肩車で渡ったりしていたようです。

大井川の川越えにちなんだ有名な一句を聞いた事がある方もいることでしょう。

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「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」

大井川は、深さがありまた流れも早いということで、川越えには苦労していたようですね。

戦国時代は、今川家が滅んだ後、大井川を境に東が武田領、西が徳川領と国境にもなっている程でした。

戦国時代は川という存在が非常に大きく考えられ、堀として城の防御に利用したり、敵の侵攻を監視したり、要害として大きな役割を果たしました。

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川越は当時の遺跡と共に、古い町並みが再現されており、街道をゆっくりと歩いておりますと、しばしタイムスリップでもしたかのような気持ちになります。

やっぱ歴史を体験すると、ロマンを感じずにはいられませんね。

今日はいい休日になりました。

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2017/01/29

大河ドラマに直接触れる旅。

大河ドラマ マニアのみなさん、こんばんわ。

「おんな城主 直虎」

今日から柴崎コウさん登場しましたよね。

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今日、「おんな城主 直虎 大河ドラマ館」見に行ってきましたよ。

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浜松市北区細江町にある「浜松市みをつくし文化センターホール」で1/15~来年の1/14までの一年間やってますよ。

気賀の関所跡のすぐ隣ですので わかりやすいです。

駐車場が多数確保されており、おそらく渋滞にハマるということは無いと思います。

関所の西側が一番近い駐車場だと思います。

私はベンリィで行きましたので、めっちゃ近くに停める事ができました。

二輪車 バンザーイ!

本当はホトボリが冷めてから行く予定でしたが、現地に行ったら すぐに入れそうな雰囲気だったので、「行ってしまえ!」という感じでした。

券売所で券を買ってから会場入り口で15分ぐらいでしょうか、待つ事になりましたが割りとスムーズに入れた感じでしたね。入場料は大人600円でした。

入口で入場者全員に記念撮影サービスを行なっていましたが、私にカメラを向けるとカメラのレンズが割れるので、丁重にお断りしました。

断る事もできるので、嫌な人は係員の人に、「失礼 つかまつり 候。」と言ってください。

会場内は撮影禁止なので 残念ながら皆様にその内容を画像でお伝えする事ができません。

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井伊家や直虎さんの説明などは、現在 多数発売中の直虎さんがらみの本でも見ることができるのでそれを見ていただければいいでしょう。

私が食いついてしまったのは、役者さんが実際に着用した衣装が多数展示してあるのでそれが一番ヤバかったですかね。

実物ですからね。

「大河が地元浜松に来てるんや~。」と実感した瞬間でもありました。

会場に入って いきなり柴崎コウさんが着た次郎法師の衣装が展示してありましたので、思わずじっくり見てしまいましたね。

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素直に「すげぇ!」と思ったのは、マーヤ・ワカスギさんが書いた「おんな城主 直虎」と書かれた題字ですかね。実物は凄い迫力があってヤバかったです。

シアタールームなどもあり、文字や展示物だけでなく、映像による説明もあるので頭が弱い私でも充分理解する事ができました。

そして最も圧巻だったのは、出口付近に展示されている、出演者の方々が書かれたサイン色紙ですね。

ほとんどの方のサインがあったと思います。

「やっぱ大河 来てるんだなぁー。」

と再び実感する瞬間でした。

出口を出ますと正直、物足りなさのような物を感じましたが、一年間限定のイベントと考えれば まぁ、満足かな。

帰りはついでに、気賀関所も見学しました。

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歴史マニアの方はご存知かと思うのですが、この関所がある街道を「姫街道」と呼ぶんですよね。

その名の由来にはいろんな説があるんですが、一説によりますと、東海道は浜名湖を渡って新居の関所を通る必要があるんですが、これが結構な難関らしかったんです。

まず、浜名湖を渡るには、「今切の渡し」という渡し舟があったんですが、結構な荒波でそれ船で超えるのは女性には大変な事だったそうなんです。

また、船で渡った後、新居の関所があるんですが、女性に厳しい関所だったという話もあります。

ですから、女性は浜名湖を渡らずに陸路の街道を選んだのですね。

女性が歩く街道 → 姫街道

となったみたいです。

ちなみに姫街道の始まりは、磐田市の見付宿からですよ。

関所の隣の建物が直虎のお土産屋さんになっています。

知らない間に もの凄い種類の「直虎グッズ」が誕生していたんですね。

びっくりでしたよ。

せっかくなのでちょっと買っちゃいました。

バイクなので大物を買わないように、これ買いました。

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「本多忠勝 蜻蛉切 箸」です。

昨日から引きずってるなぁ・・・・・。

しかも「直虎グッズ」じゃないし。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpmk5aiおっ!おおーーっ。

もちろん 箸としては使いませんよ!

箸置きがカッコイイ!

Dsc_0182_2本多家の家紋入りですぞ。

奥さんにはコレ。

Dsc_0175_2直虎さんの手鏡ですね。

ああ、ちゃんと奥さんにも買うところ、えらいでしょ!

奥さんは、MD家の「おんな城主」ですから。

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こうして大河ドラマ館を後にしました。

では、本来の目的を達成しにいきましょうか。

「水の町」とも言われる井伊谷に流れる清流 都田川。

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そのほとりに ひっそりと佇む一つのお墓があります。

Dsc_0165_2井伊直親さんのお墓です。

ドラマを見ている方はおそらく この墓前に手を合わせたくなることでしょう。

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井伊家において とても悲しい人生を歩んだ直親さん。

どうぞ大河ドラマ「おんな城主 直虎」をご覧ください。

きっと泣けます。

直親は、三浦春馬さんが演じています。

ドラマを見て 私と同じような思いをされた方がいたんですかね。

Qzjxvwuti1m7akz1485677278_148567730「横笛」が手向けられていました。

合掌。

う~ん、「おんな城主 直虎」 いい作品だ。

ああ、井伊作品だ。

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2017/01/22

歴史から学べ!「本能寺ホテル」

映画マニアのみなさん、こんばんわ。

土曜の夜、映画いきました!

二本観たい映画があって どちらを観ようか寸前まで迷っていました。

① マーティン・スコセッシ監督 「サイレント沈黙」

② 綾瀬はるか主演 「本能寺ホテル」

最近、心身共に疲れている事もあり、「サイレント」はちょっと重いかな・・・。

ならば ゆる~く癒される事が今の私には必要なのか・・・。

軍配は「本能寺ホテル」に上がりました!

ネットレビューでは酷評も目立つこの映画「本能寺ホテル」です。

私は映画を愛しています。

いろんな考え方があると思いますが、私自身、例えおもしろくない映画を観たとしてもそれをこのブログ上で酷評したり批判したりしないというスタンスで運営しています。

それは映画を製作する方々にも敬意を表するためと、私は評論家でもなければコメンテーターでもないので、わざわざそんな事をする必要がないからです。

正直、全然おもしろくなかった作品もありました。

でも、それは ただブログに書かなければいいだけの事だと思うんです。

映画作りなんて、自分にはやりたくてもできない事ですからね。

つまりそこが私の言う”マニア”という事なんですよ。

映画作ってる方々、尊敬しますよ。

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では、現在公開中の映画ですので、いつものとおりネタバレしない程度に感想などを。

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愚者は経験から学び

賢者は歴史から学ぶ

このテロップから始まった「本能寺ホテル」、我々は過去に、どれだけの歴史を学んできたのでしょうか?

学校で習った歴史の授業は、「歴史では無い。」と私は考えています。

学校で習うのは、「何年に何が起こった。」という「史実」の勉強です。

つまり ただの暗記なんですよ。

私が子供の頃は歴史の授業で、1192年に源頼朝が開いた鎌倉幕府を語呂合わせで「イイクニ作ろう鎌倉幕府」と覚えさせられました。

テストにも「鎌倉幕府が開かれた年」という問題が出たりしてました。

正直、こんな事はあまり意味が無いことだと思うんですよ。

実際、最近では「1185年説」が定説となっていますよね。

歴史は新たな事実が発見されると変わっていくものです。

何年に何が起こったとかそれほどいい加減なものなんですよ。

本当の歴史の勉強は、「何でそうなったのか?」という事だと思うわけです。

ただ起こった事だけを年表を見るように勉強していても、テストの点数は取れるかもしれませんが歴史的にはほとんど意味がありません。

今回の映画が焦点をあてた歴史的事件は、

「本能寺の変」

歴史学者や歴史マニアは、とにかく興味が引かれる事件なのです。

何故なんでしょうか?

それは謎が多いからなんです。

新たな事実が発見され、その謎に一歩近づいた時の喜び、今ある史実からあらゆる可能性を探るおもしろさ、それが歴史マニアにはたまらない事件なのです。

「本能寺の変」については私自身もいろいろ調べていますので、いづれ特集するとしまして、映画の方の話になります。

では簡単なあらすじを

勤務していた会社が倒産し就職活動をする女性 繭子(綾瀬はるか)。

特にやりたい事もなく、なかなか職も見つからない。

そんな時、恋人からプロポーズされ、ただ流されるかのようにその道に乗っかろうとしていた。

彼の実家は京都。

繭子は彼の親に挨拶にいくため京都を訪れていた。

予約してあったホテルで何があったのか、予約されていた日は 何とちょうど一年後の日付だった。

繭子は急遽他のホテルを探した。

「本能寺ホテル」

とても古く、歴史ある建物だった。

ロビーには400年前、キリスト教宣教師の持ち物だった壊れたオルゴールが置いてあった。

チェックインし、エレベーターに乗った。

その中で疲れたように街で買ったコンペイトウを「カチリッ。」と噛んだ。

すると同時に壊れているはずのオルゴールが音楽を奏で始めたのだ。

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エレベーターが到着し扉が開いた。

するとそこは見たこともないような風景。

「あれ???」

なんとそれは1582年6月1日の本能寺であった。

そこで繭子は、天下統一を目前にしたあの織田信長に出会ってしまう。

信長の逆鱗に触れ、斬られそうになったり、捕らえられたり。

ギリギリのところで命からがら逃げきった。

それから繭子は幾度と無く1582年と現在を行ったり来たり。

何故タイムスリップしてしまうのか繭子自身も解らない。

そんな事を繰りかえしているうちに信長は、繭子に興味を抱くようになっていた。

信長は「やりたい事がみつからない。」という繭子の悩みを聞き、戦国武将として的確な答えを授ける。

信長自身もまた彼女の気負いせず飾らない言葉の数々から己自身を知っていくことになる。

そして繭子は、イメージとは違う本当の信長を知り、その心の広さ、優しさに触れ 次第にその人間性に惹かれ始める。

でも繭子は とてつもなく大きな事を悩んでいた。

それは1582年6月2日未明に起こる大事件、「本能寺の変」の事である。

その事件が、まさに今夜起ころうとしているだ。

信長は家臣 明智光秀の謀反により、この日、燃え盛る炎の中で自害する。

この事実を信長に伝えるべきか、伝えないべきか・・・。

「もし伝えれば歴史が変わってしまう。もし伝えなければ信長さんが死んでしまう。」

悩んだ繭子が出したその答えとは?

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あまりにも謎が多く、展開がドラマチックな事から映画やドラマ、CMなどでもよく使われる事件 「本能寺の変」。

今作もまた、独自の切り口、ちょっとゆる~い感じで「本能寺の変」を描いています。

歴史に興味がない方、信長さんをよく知らない方でも充分解る作品になっています。

そして、「綾瀬はるか全開」の作品といってもいいでしょう。

いつも彼女の作品には癒されます。

この作品は見る者に、

「あなたは やりたい事がありますか?」

と問いかけています。

この作品で信長のやりたかった事は、「最強になる事」ではなく、「天下を統一して人々を平和にする事」としています。

繭子は信長に出会い、その言葉を聞いた事で今までの自分を見直し、やりたい事を見つけて新たな人生を歩み始めようとしていました。

人生感が変わったのです。

そう彼女は信長から学び、そして「歴史から学んだ」のですね。

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監督は、「プリンセス トヨトミ」の鈴木雅之監督

出演は、織田信長役に堤 真一さん。

堤さんは綾瀬さんと共演が多いですね。

お互い気心が知れていて やり易いんでしょうね。

堤さんの信長、カッコよかったです。

信長の家臣 森 欄丸役には濱田 岳 さん。

ちょっと気が弱くコミカルな役には定評がありますね。

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2016/05/04

第三次 高天神城攻め。

連休は、割と忙しく過ごしていますよ。

昨日も、過去三度目となる高天神城に登城しました。

前回はちょうど一年前でしたね。

何でそんなに何回も私は高天神に行くのでしょう?

答えはのちほど解ります!

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天候が危うい感じでしたので午前中から登城を開始しました。

軽登山になるので、装備もそれなりに準備しました。

P4050110_2トレッキングシューズとトレッキング用のスティックがあればOKでしょう。

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今回は、南側の追手門側から登城します。

追手門側は、北側の搦手門側のように階段など登るための整備が行き届いていません。

それがかえって高天神城の良さを引き出します。

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では、高天神城の歴史をおさらいしておきましょう。

歴史読み物 高天神城の攻防戦

一般の歴史資料を見ますと、高天神城では二度の大きな戦いがあったとされています。

1574年、武田勝頼が攻めた「第一次 高天神城の戦い」、1581年、徳川家康が攻めた「第二次高天神城の戦い」がそれになります。

しかし、実際はそうではありません。

ちゃんとした歴史の文献を紐解きますと、この二つの戦い前、1571年に武田勝頼の父、武田信玄が高天神城を攻めているんです。

戦国の歴史を語る上で、この信玄による高天神城攻めがとても重要になってきます。

元々、高天神城は、駿府から遠江、三河までを領地としていた今川氏の城でした。

「桶狭間の戦い」において、今川氏は織田信長に討たれます。

これによって高天神城の城主は、今川氏の人質だった徳川家康に付くことになります。

すると甲斐の武田信玄は、遠州侵攻を開始します。

「高天神を制する者は遠州を制する。」

と言われ、信玄は高天神城を攻めました。

しかしこの高天神城は、北、東、南は切り立った崖に囲まれた鉄壁の城。

信玄は、早々に攻め落とせない事を悟り、兵を引いたんですね。

当時最強と言われた信玄をもってしても落とせない城が高天神城なのです。

とはいうものの、信玄は遠江にある高天神城以外の徳川の城のほとんどを攻め落としていきます。

いよいよ家康が居城する浜松城攻めが始まると思いきや、信玄は浜松城を攻めず素通りしたんですね。

そこで家康が浜松城を出陣、武田軍と戦いました。

それが「三方原の戦い」です。

「三方原の戦い」で大勝した信玄は、先へ進みます。標的はそう、

織田信長。

あの信長が唯一恐れていた男がついにやってくる。

信長は、正直ビビッていたと思います。

しかし、ここで神は信長に味方します。

新城の野田城を攻めた直後、信玄は持病である胃癌が悪化、侵攻を諦め、甲斐に帰るも到着することなく命尽きたのです。

信玄は、自らの死期を悟っていたのでしょう、遺言が残されていました。

一、 自身の亡骸は諏訪湖に沈めること。

一、 三年は動かず甲斐を守ること。

一、 家督は四男勝頼の息子、信勝に任せる。但し、信勝が十六歳になるまでは勝頼が陣代とする。

などが書き記されていたそうです。

つまり、勝頼は「ワンポイントリリーフ」という扱いだったんですね。

信玄は勝頼の性格をよく知っており、勝頼では織田・徳川に対抗できないという事を見抜いていました。

勝頼は、「調子に乗りやすい性格」だったと言われています。

でも、勝頼本人は心中穏やかではありません。

「この汚名、晴らしてくれるわ!」

勝頼は、父の遺言を破り、三年を待たずして動き出してしまうのです。

父、信玄を越え、汚名を晴らすためにはどうすればよいか・・・。

「父が落とせなった城を見事落とせば、誰しもが わしの実力を知ることだろう。」

その城とはそう、

高天神城。

勝頼は、家臣の制止をも無視し、25000人という大軍を率いて1574年5月、高天神城を包囲しました。

それが「第一次 高天神城の戦い」です。

城兵は1000人、とても勝ち目はなく、家康に援軍を要請しました。

しかし勝頼は別ルートで別働隊も送っており、家康はそちらの対応をしなければならず援軍が出せません。

家康はすぐさま同盟関係にある信長に援軍を要請しました。

信長も救援部隊を出したが間に合わず、高天神城は武田の手に落ちたのです。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpeivlw天正二年(1574)の戦いでの戦没者の慰霊碑です。

「見たか!」

勝頼は、高天神城を落とした事で、その実力を内外に知らしめる事に成功しました。

しかし、これがきっかけで武田滅亡へのカウントダウンは始まります。

勝頼の悪い虫が出てしまったのです。

勝頼は有頂天になり、調子に乗って翌年15000の兵を率いて、長篠城を攻めにかかります。

それが、「1575年、長篠・設楽が原の戦い」です。

ところが、織田・徳川連合軍は、そう甘くはありません。

家康は自らの命運を賭け、設楽が原に兵を進めました。

その数、信長からの援軍も合わせてなんと38000人。

信長は、火縄銃3000丁を使い武田軍を圧倒しました。

勝頼はこの戦いで、多くの重臣を失い自身も死を決して戦おうとしましたが周囲の者が懸命に制止し敗走しました。

この負け戦により、武田はその勢力を徐序に失っていきます。

Varwwwclientsclient1web2tmpphp2ioeu城の西側斜面は唯一なだらかで、それゆえに「高天神城の弱点」とされていました。勝頼はここに空堀を掘り、その対策としました。堀は400年という年月でかなり埋まってしまいましたが、その遺構は痕跡としてしっかり残されています。

家康は、実に七年もの歳月をかけ、高天神城奪還の準備をします。

その間、陣城として横須賀城を築き、より確実に高天神城の奪還を目指していました。

1580年10月、遂に家康は5000人の兵を率いて高天神城奪還を図りました。

やはり、家康も「この城は力では落とせない。」という事を解っています。

家康は、力攻めではなく、兵糧攻めを行ないます。

食料の経路を断たれ、数ヶ月に及ぶ徳川軍の包囲により城内部は徐序に兵糧が尽き、餓死する者も出てきました。

勝頼に援軍を要請するも一向に来る気配はなく、

「もはやこれまで・・・。」

城主、岡部元信は家康に降伏を申し出ました。

しかし、ここで家康の元へ信長より書状が届きます。

「降伏を受け入れるな。」

それは城兵達にとって非情ともいえる書状でした。

城を出れば殺され、城に残れば餓死する。

もはや城兵達に残された選択は、「死あるのみ」という事態になってしまったのです。

落城寸前、武田軍の家臣 横田甚五郎は西側の尾根伝いに脱出に成功し、甲斐の勝頼に状況を報告に行きました。

Varwwwclientsclient1web2tmpphp3n5am「横田甚五郎の抜け道」です。尾根伝いに道が続いています。今回は結構なところまで行ってみました。この道を馬に乗って抜け、甲斐へ向かったといいます。

「親方様、無念です・・・。高天神は間もなく 落ちます・・・。」

それを聞いた勝頼は、目に涙を浮かべたといいます。

何故勝頼は援軍を出さなかったのでしょうか?

出せなかったのです。

家康は、関東の北条氏と同盟を結んでいました。

高天神城攻めに合わせて、北条氏に武田を攻めるよう要請し、援軍が出せないよう仕向けていたのです。

こと策略にかけては、家康のほうが何枚も上手でした。

1581年3月、岡部城主以下、生き延びていた城兵役700名は、遂に決心しました。

「このまま死んでたまるか・・・。」

彼らは二手に分かれ、城から討って出たのです。

しかし何も食べていない城兵達は、もはや動ける状態ではなく、次々に討ち取られ皆殺しの状態、「堀が死体で埋まった。」とも言われています。

あまりにも悲惨な最期でした。

P4050108_2三の丸から見た下界の景色です。海抜132メートルの高さの山に築かれた城です。

この戦いの後、勝頼は援軍を出さなかった事が名声を落とすきっかけとなり、翌1582年、織田・徳川連合軍に総攻撃をかけられるも、もはやそれに対抗する力は無く勝頼は自刃、武田家は滅びていくのでした。皮肉な事に父、信玄の予言が的中する形となってしまったのです。

歴史の文献を見ますと、武田勝頼は、武田家を滅亡に追い込んだ人物であるため武将としての評価は非常に低く書かれています。しかし決してそんな事はありません。勝頼はとても頭が良く強い武将でした。信長を翻弄し、家康を危機に追い込んだその実力は計り知れないものがありました。

そして高天神城は、そのまま城郭として改修されることなく、廃城となりました。

つまり、まさに戦国時代の遺構がそのまま残されているのが高天神城なのです。

通常、戦国時代の城は江戸時代に入っても藩の拠点として使われていたことが多く、戦が無くなった江戸時代は防御施設を取り払い、使いやすいように改修されているんですね。

そんな戦国時代の強くも悲しい爪跡が残った高天神城に私は、とてつもなく魅力を感じるのです。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpplwqn戦没者の慰霊碑です。

高天神城址には戦没者を祀った石碑がいくつもあります。

とても多くの戦士達が亡くなった高天神城にやはり私は特別な感情を抱いてしまいます。

彼らの武士としての忠誠、誇り。

そして死を決した時彼らは何を思い散っていったのか・・・。

ここにくると私は、少なからずその思いを教えられる感じがします。

一定の時が経つと私はどうしてもここを訪れたくなります。

そんな高天神城にくる度に私は戦没者の慰霊碑に手を合わせるのです。

安らかにお眠りください。もう戦う必要はないのですから・・・。

高天神城は、今日もただ黙って その歴史を語っています。

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城址内にある高天神社にこんな物がありました。

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私も一筆書かせていただきました。

「高天神城、なぜ100名城に入らない!」

と書きましたよ。

高天神城は、歴史的にとても重要であり、やっぱ名城だと思いますよ。

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2016/03/27

新東名で歴史探訪。

日本列島、至る所で桜の便りが聞かれるようになりましたね。

しかし、静岡県内は暖かい地域の割りには開花が遅れているようです。

月末になるようですよ。

さて、そんな今日、ウダウダしていてもしょうがないという事で、ちょっと出かけてきました。

先月、それまで静岡県内のみ開通していた新東名が、ついに愛知県まで開通しました。

静岡県から愛知県豊田市までの約55キロの区間です。

新東名はそのまま「東海環状自動車道」へ繋がり、岐阜、あるいは長野方面までかなりのショートカットになると思われます。

というわけで、ちょっとだけ目的を決めながら愛知県の新東名を体験してきました。

Dsc_1164_2_2いなさJC付近、この辺から今回開通したところかと思われます。

目的となる地は、静岡県と愛知県の県境の位置する街、「新城市」です。

新城にはインターチェンジが設けられました。

新城は昨年、長篠城攻めで訪れています。

もちろん今日も二回目の城攻めしましたよ。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpniaqo今、再びの城祉へ。

Dsc_1172_2遺構の堀もありますよ。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpgqau3本丸です。小さな城ですが、戦国時代はとても重要な位置にある城でした。

Dsc_1173_2なんと城祉のど真ん中を鉄道が走ってます!よく許可したなぁ。ちなみに飯田線です。

Dsc_1198_2今回は、しっかり「100名城スタンプ」を頂きました。一つ目の目的、達成です。

Varwwwclientsclient1web2tmpphp3cfm3「牛渕橋」。やっぱ長篠城はこっから見ないとね。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpn7qjo現在は「豊川」と呼ばれる左手の寒狭川(かんさがわ)と右手の宇連川(うれがわ)が、まさに交差する断崖に築かれてた要害な城です。

やっぱ城祉はテンション上がるなーっ!

長篠城では、徳川軍と武田軍と熾烈な争奪戦が繰り広げられました。

その戦において、一人の英雄が現れました。

「鳥居強右衛門(とりい すねえもん)」、その人です。

彼については、またいずれ書き留めますので興味がある方だけお読みください。

長篠城にほど近い場所にあるお寺さんに鳥居強右衛門さんのお墓があります。

本日、二つ目の目的、鳥居強右衛門さんのお墓参りです。

Dsc_1166_2そのお寺さんとは、「興国山 新昌寺」。

Varwwwclientsclient1web2tmpphphfwrsまだ新しく、とてもきれいなお寺さんでした。

その裏手の墓地に一際おおきな石碑があります。

Dsc_1168_2こちらが鳥居強右衛門さんのお墓になります。

お墓といいますか、狛犬が入り口を守っているので、もう神格化されてる感じもありました。

やはり、この地域では英雄的存在のようですね。

しっかりと合掌させていただきました。

ちなみに背後の小高い所は、新東名になります。

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では次なる目的地へ。

今日は家の掃除とかしていて出発時間がAM11:00過ぎになってしまったので、結構タイトなスケジュールで行動しています。

城祉とお寺ときたら、もうここも行かないと。

Dsc_1193_2三つ目の目的地、「設楽原古戦場跡」です。

昨年も見に来た「馬防柵」もちゃんとありますよ。

正面に見える森が武田勝頼の本陣になりますね。

現地を見て思う事は、設楽原は想像以上に狭いという事なんですよ。

ここで何万という兵隊が激突したというのが信じられないです。

約八時間続いた戦いは終始織田・徳川軍の優勢という感じだったんだと思います。

「無敵」といわれた武田騎馬隊も鉄砲には敵わなかったんですね。

設楽原を分断するように連吾川という川が流れているんですよ。しかもここは湿地帯だったといいます。

武田軍は、ぬかるみに足をとられ思うように戦えない状況だった事も大きな敗因だったんでしょうね。

やはり、自分の足で現地を歩くと、いろんな事が見えてきます。

そこが歴史探訪の醍醐味ですよね。

「長篠城の戦い」と「設楽原の戦い」を合わせて「長篠の戦い」と総称されてきましたが、最近ではこの二つの戦いは別の戦いとして分けた形で語られる事が多くなってきました。

実際現地に足を運ぶと、長篠城と設楽原は結構な距離があることがわかります。

武田軍も一度は、長篠城から兵を引いている事、織田本軍と徳川本軍が直接長篠城の戦いには参戦していない事を考えても、この二つの戦いは、私も分けたほうがいいと思います。

Dsc_1194_2これが現在の連吾川です。

連吾川小っさ!当時もそんなに大きな川ではなかったようですね。

黒澤監督の映画「影武者」では、影武者役の仲代達也さんが連吾川を流れていくシーンがラストだったんですが、人が流されるほどの大きさじゃないですよね。

Photoこちらの画像は、武田軍側から見たアングルになります。

およそ450年前、ここで凄い大勢の兵隊さんが討死したんですよね。

思わず手を合わせたくなるような空間でした。

そこから西へちょっと行ったところ、本日四つ目の目的地は、新東名開通と共にオープンした「長篠設楽原PA」です。

もちろん、このPAは一般道からも入る事ができます。

まずは下り側のPAから。

Dsc_1175_2長篠設楽原PAは、戦国ファンにはたまらない、パーキングエリアになっています。

ほら、織田の御紋と徳川の御紋があるでしょ。

下り側は、「織田・徳川軍」をテーマにデザインされ、上りは「武田軍」をモチーフにデザインされています。

でも、実際武田軍は東から攻めてきているので、方向的には逆じゃないかと思うんですよ。

なるほど理由がありました。

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なんと下りPAの直ぐ横の山は、「設楽原の戦い」の時、織田信長様が本陣を置いた場所「茶臼山」なんですよ!

さすがに織田軍本陣の真横に武田側のPAがあってはシャレにならないですもんね。

PAからそのまま歩いて登れます。

Varwwwclientsclient1web2tmpphptgbje信長様本陣跡から見た、PAになります。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpiggvt歴史に全く興味がないような方々も大勢見学してました。

まぁ、信長様は有名ですからね。

Dsc_1178_2自販機も信長調にモチーフされていておもしろいです。

Dsc_1176_2中には、戦国グッズコーナーもあり、太刀とか火縄銃とか売られてましたよ。

人がごった返していたので今回も何も買わずに退散です。

もちろん上り側も行きましたよ。

Dsc_1179_2上りは、武田菱の御紋がありますね。

やっぱ戦で負けちゃったからでしょうか、若干トーンダウンしている感じの作りでしたね。

Dsc_1184_2こちらの自販機にも武田の兜がありましたよ。

こうして本日の目的は終了です。

テンション上がってあっちこっち行っていたので、結構疲れましたね。

やっぱ歴史探訪は、本で見るのと、現地を見るのとでは大きな印象の違いがありますね。

現地の地形を自分の目で見ればこそ解ることが非常に多いです。

これからもなるべく現地へ足を運んで勉強します!

では。

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2015/10/24

秋の伊賀攻め!

火曜日ごろから、どうも左腕の関節が痛かったんです。

思い当たる節がなく、原因が解らなかったんです。

ふと、どこかの爺さんが言っていた事を思い出しました。

「じじぃになると、疲れや痛みが遅れてやってくる。」

flair

そういえば先週の土曜日、イーハトーブに乗ったんです。

その時、天竜川の河原を疾走したり、堤防の土手を登ったり降りたりトライアルごっこをしたりしていたんです。

もしかしたら、それなのかもしれません。

だとすると、かなり情けないなぁ・・・・。

sad

さて今日は、先日の城攻め報告の続きですよ。

ここからは、お好きな方だけどうぞ!

「伊賀の城攻め」

「伊賀」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、やっぱ「忍者」でしょうね。

「忍び」とか「間者(かんじゃ)」って時代劇では呼ばれてますよね。

伊賀の街に入ると、アトラクションとかの施設や土産物などに至るまで忍者一色といった感じがあります。

でも残念な事に、テレビや映画、物語などで見る、あの黒装束の忍者って本当は存在していなかったようですね。

ただ、戦国時代も江戸時代も忍者の存在はあったようです。

但し、身なりは普通の町人や武士という極めて普通の格好をしていたようです。

戦国時代のイメージは、城攻めをして城を落としたり、槍を持って野戦をして大将の首を獲る!といったイメージですよね。

でも、意外にも戦国時代は、情報戦が勝敗を決める場合がほとんどだったのです。

その時情報集めに活躍するのが、「忍び」だったんですね。

よく、「謀反の動きあり。」という情報を得て、討伐に向かう。という話がありますよね。

その謀反の動きをいち早く察知し、大将に知らせるのがまさに「忍び」の役割です。

おそらく敵の中に潜り込んで諜報活動をしていたんでしょうね。

まさに「007」の世界です!

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「伊賀上野城」に登城。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpa0z4z個人的にずっと見たいと思っていた城のひとつ「伊賀上野城」。

やっと願いが叶いました。

伊賀上野城のゆるキャラ、「た伊賀ーくん」もお出迎え。

この天守閣は、復興天守と言われる物で、川崎 克という方が個人的に築城された城です。地元の名士だったんですね。

完成が「昭和10年」とされていますから、復興天守と言えども歴史のある城なんですね。

意外にも街中に建てられている感じでした。

周辺には学校や役場などの施設がありましたね。

考えてみればそれもそうなんですよね。

基本的に昔の町作りは城を中心に作られていますから、町の中心部に城があって当たり前なんですよね。城下町というぐらいですから・・・。

今更なんですが・・・。

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伊賀上野城

別名 : 白鳳城

種別 : 平山城

築城年 : 1585年 1611年改修

築城者 : 筒井定次 藤堂高虎

元々は、筒井氏が三層の天守を築いた。

関ヶ原の戦い後、実質的に豊臣政権は徳川政権と移行していく。

その頃、家康は伊賀国を築城の名手、藤堂高虎に任せ、この伊賀上野城を五層の大天守にすべく改修をさせた。

だが、完成間近の天守は1612年の暴風雨で倒壊、築城は取りやめになった。

ただ、最初の着手した高さ30mにも及ぶ高石垣は見事な物であり、藤堂高虎の築城技術の高さを垣間見ることができる。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpoued3堀の見事さもさることながら、この石垣は圧巻である。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpqofcl石垣には、「武者返し」も取り入れられている。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpvop05「危ない!」という言葉すら耳に入らないほど、夢中でシャッターを切る私。

Varwwwclientsclient1web2tmpphphcwtu石垣のあまりの美しさに放心状態となり、堀に飛び込もうとする気持ちをギリギリの理性で抑えている私。

Varwwwclientsclient1web2tmpphph5gqvもはや「復興天守」と呼ばなくてもいいぐらいの天守閣です。

実はもうひとつ伊賀上野城で調査したい事がありました。

1980年、黒澤 明監督の映画「影武者」のロケで、この伊賀上野城が使われたという情報があったのでその場所を特定したかったんです。

武田信玄が野田城で狙撃されるという設定の「影武者」なのですが、その狙撃されたとされる場所のロケに使われたのがここの通路らしいんですよ。

Varwwwclientsclient1web2tmpphppreyg散策してみましたが、残念ながら特定には至りませんでした。私の記憶にも曖昧なところがあるので、「影武者」観てから行くべきでした。

「死ぬ時はこの石垣から・・・。」と、密かに自らの死に様を想像しながら、

伊賀上野城 攻略!

続きまして、

「松阪城」に登城。

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「松阪」と言えば「松阪牛」ですよね。でも私は、食べ物に興味がないので流します。

だったら言うなよ!

Varwwwclientsclient1web2tmpphp3qqir松阪城 本丸の石垣です。
正直、あまり期待していなかったのですが、さすが100名城に名を連ねているだけの事はあり、石垣が凄かったです。

松阪城

種別 : 平山城

築城年 : 1588年

築城者 : 蒲生氏郷

三重の天守があったとされ、天守台が遺構として残されています。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpu9w3r天守台です。

どこか安土城を彷彿とさせるほど石垣にこだわりが感じられます。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpxbdyg天守台を目指すには、何度も何度も曲がりくねった通路を登るように防御されています。

角にはしっかりと虎口が設けられ、おそらく築城には、かなり城に詳しい技術者があたっていたんじゃないでしょうか。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpuworx城の外周は、見事な石垣に守られています。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpapljrこんな感じで、完全に町に溶け込んだ感じの城でした。

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復元天守でもあれば、かなりいい城になっていたと思います。

松阪市さん、牛をたくさん売って天守閣を復活させてください。

と余計なお世話を発言をしながら、

松阪城 攻略!

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2015/10/21

~優しき戦国武将~ 小谷城址へ。

平日です。

今日は城攻め報告ですよ。

お好きな方だけどうぞ!

先日の日曜日(10/18)の事。

兄貴から出陣命令があり、「伊賀の城攻め」を慣行いたしました。

と言う割に始めに攻めたところは近江なんですが・・・・。

今日は、とりあえずそこからいきます!

「小谷城址」

Varwwwclientsclient1web2tmpphpffoce影で読みづらいですが、石碑には「小谷城址」と書いてあります。

小谷城は山城なんです。

はじめに白状しておきますが、今回は登りませんでした。

これなんですよ。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpggvtv最近、熊が出たらしいですよ。そりゃ登山やめますわな。

っていうか、「疲れる」という理由のほうが全体の8割を占めているという事を白状です!

Varwwwclientsclient1web2tmpphpfzlvhもちろん、入り口までは行ってますよ。説明看板や縄張り図の確認をし、周辺の雰囲気は堪能できました。

Varwwwclientsclient1web2tmpphp5fjiy現在は登れませんが、ここが大手道でした。登られる方は、ちゃんとした道がありますよ。

Varwwwclientsclient1web2tmpphpcjesq入り口付近に、浅井家の家紋が入ったでかい兜がありました。

ああ、「浅井」は、「あざい」と読みます。

では、小谷城について簡単に説明を。

小谷城

種別 : 山城

築城 : 1523年

築城者 : 浅井亮政(すけまさ)

book

やさしき戦国武将 浅井長政

小谷城は、浅井氏三代が代々受け継いだ城である。

浅井家の中では、三代目の長政の名がよく知られている。

1561年、長政は、織田信長と同盟をむすんだ。

その時、信長は妹の「お市」を長政の嫁に出すことにで、同盟関係をより強固なものにしようとした。

まさしく政略結婚そのものであった。

しかし、誠実で優しい性格の長政と、「戦国一の美女」とも言われる程美しかったお市は、互いに惹かれ合い、戦国時代には珍しく恋愛結婚に近い程仲むつまじい夫婦であったらしい。

その証拠に、子宝にも恵まれ三人の娘達がいた。

「茶々」、「初」、「江」は、「浅井三姉妹」と呼ばれ、後に歴史を動かす程の人物になっていく。

pencil

浅井家は古くから越前の朝倉氏と深い付き合いがあった。

長政は信長に同盟を結ぶ条件として、「朝倉を攻めない」ということを約束させた。

だが信長は、その約束に反し、朝倉攻めを行う。

長政は、実直な信長を取るか、義理で朝倉を取るか、究極の選択を迫られた。

長政は、祖父の代から世話になってきた朝倉氏を助けるほうを選択をし朝倉軍に加勢した。

だが、この行為が信長の怒りに火を点けてしまった。

浅井・朝倉連合軍 対 織田・徳川連合軍

が相対することになる。

1570年、「姉川の戦い」である。

野戦を得意とする家康は、その強さを示す形で朝倉軍を倒し、浅井軍も敗走を余儀なくさせた。

そして1573年、遂に織田信長は、浅井長政の居城 小谷城に総攻撃をかけた。

燃え盛る小谷城。

その火中で長政は自刃し、29歳という若さで生涯を終えるのだった。

信長に攻め込まれる直前、長政は愛する妻、お市にこう言った。

「娘達を連れて逃げてくれ。そしてきっと生き延びてくれ・・・。」

しかしお市は、それを拒否し、一緒に死ぬ事を嘆願したという。

長政は根気よく説得を続け、ついにお市は長政のその優しさに折れた。

お市は、娘達を連れて小谷城を後にした。

後にお市は、信長と再会。

信長は、お市とその娘達をとがめることはしなかったそうだ。

戦国という時代、小さな幸せすらも許されず灰と化す時代。

そんな時代に、優しく、義理堅く、誠実だった戦国武将

浅井長政

彼は産まれる時代を間違えてしまったのではないかと、私は強く思うのだった。

もっと人気があってもいいと思う長政に敬意を表し、

小谷城 攻略! (一応)

次回は、伊賀攻めです。

伊賀上野城、松阪城、攻略に着手!

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2015/08/15

終戦の日

「・・・・ 堪えがたき堪え、忍びがたきを忍び・・・。」

1945年8月15日正午。

昭和天皇による玉音放送が日本国内全域に流れた。

終戦。

日本は敗戦した。

この放送を聞いてる時、人々はどんな感じだったのだろうか?

先日、実家の母に聞いたみた。

「みんな泣いていたよ・・・。」

それ以上、母の口から何も語られることはなかった。

「みんな泣いていた・・・・。」

その涙とは何の涙だったのか?その意味とは?

私は過去、勉強などしたこともないような馬鹿な子供だった。

でも常識として、「8月15日は終戦の日」というのは知っていた。

先日、とある番組で、

「8月15日は何の日ですか?」

という質問を30歳までの若者達に投げかけていた。

その結果、答えられなかった若者が実に半数以上に上った。

え~っ!

私は思わず声を上げて驚いた。

決して若者達が悪い訳ではない。

しっかりと教育してこなかった国、しっかりと伝承してこなかった我々大人達に問題があるのだ。

そう思ったとき、もし自分の孫が、

「じぃじ、何で日本は戦争をしたの?」

という質問をしてきたとしたら、自分はちゃんと答えられるのだろうか?

そんな事を思うようになった。

答えられなくては「伝承」など皆無だ。

私ももう50歳になる。

既に手遅れかも知れないが、日本人として「太平洋戦争」についてその事実を知っておく必要がある。

いや、知っておく義務がある。

私が生まれた1966年、そのわずか21年前まで日本は戦争をしていたというその事実を。

日本は、なぜ戦争を始め、どんな戦いをし、どうなっていったか。

大人として、次の世代に伝えていかなくてならない。

310万人とも言われる日本人戦没者の数。

この人達のことを決して忘れてはいけない。

今の日本は、この人達の上に成り立っている国なのだ。

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先頃、安部総理の「戦後70年談話」が発表されました。

私は別に安部政権を推してもいないし、自民党にもなんの関係もありません。

でも私個人的には、この「安部談話」、いい談話だったと思います。

各方面に配慮をされた内容で、先代の村山元総理、小泉元総理の談話の内容も継承されていました。

もちろん賛否はありますけど、まぁこのへんは、どんないい談話を出したところでも、やっぱ何か言う人や国はありますから、いいと思いますね。

私が一番いいと思ったのは、冒頭で述べた過去の歴史の部分ですね。

欧州の国がアジア諸国を植民地化していたという歴史。

チクリ、チクリと欧州各国も痛いところを突かれたんじゃないでしょうかね。

もちろん戦争を起こした日本は悪いんですよ。

でも、その過程には、欧米諸国がアジアにしてきた事が大きく関わっているということ世界の人はちゃんと知らないといけないと思います。

その上で「謝れ」というのは正論です。つまり、

「こっちも謝るから、あんたらも謝れよ。」

ということなんですよ。

でもまた10年後の首相はまた談話を発表するんですかね?

もういいんじゃないですか?

そろそろ前を見ても。

戦後70年、ある意味節目ともなる年。

だからというわけではないんですが、

8/15という日は、一年に一度、いろいろ真面目に考える日にしないといけないですね。

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